繁岡 ケンイチ 帝国ホテル フランクロイドライト
繁岡ケンイチ(繁岡鑒一)
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English
東京美術学校(東京芸術大学)在学中に「はいばら」の紹介で、帝国ホテルの仕事をするようになった繁岡ケンイチは再び「はいばら」の依頼で、フランクロイドライトと出会い「孔雀の間」彩色壁画を製作をすることになります。

社団法人日本ホテル協会発行の機関紙「ホテル・レビュー」に1954年(昭和29年)2月号から8月号に「ホテルの仕事集壁画の巻」として掲載したものから抜粋
旧帝国ホテル玄関帝国ホテル孔雀の間帝国ホテル小劇場
「はいばら」の仕事 林愛作との
出会い
アントニン・レーモンド フランクロイドライトとの
出会い
材料の選定
現場の仕事 手待ち 製作再開 パンケットホールその1 パンケットホールその2
バンケットホール
ドームの高さ
ミューラー現場主任 バンケットホール完成 フランクロイドライト
帰国
帝国ホテル演芸場
プロメナードパーラー フランクロイドライト
礼讃記
バンケットホール
屋上女神
帝国ホテル鳥瞰図 記念撮影
帝国ホテル
壁画の巻
当時のご案内 当時の絵葉書  マッチ 記念撮影2
全体写真  帝国ホテル復原記   90周年記念展示new    
宴会場「孔雀の間」
孔雀の間
当時のパンフレットより拡大
孔雀の間
孔雀の間 孔雀の間

「孔雀の間」彩色壁画製作風景
孔雀の間製作風景
※上記イラスト内の繁岡ケンイチ(繁岡鑒一)書き込み
木工・大工・銅工が一緒になって造り上げたバンケットのピーコック装飾壁この足場へ始めて昇った時は立つことすら出来なかった。岩絵具と本金箔で塗り上げる大仕事だった。この為一時は東京中の絵具店に岩絵具が品切れになる程だった
これは本当の話である
(上) この色ガラスを通して間接照明になってピーコックが浮き上がっていた(右)

経緯その1
「和
紙のはいばら」での仕事(繁岡ケンイチから直接聞いた話)
繁岡金太(繁岡ケンイチ父)も日本画家で、足の不自由な父に代わり五人兄弟の長男として繁岡ケンイチは、東京芸大在学中も「和紙のはいばら」のアルバイトして生計を助けていた。※「和紙のはいばら」では店頭の陳列ケースやお客様の依頼で絵を描いたり壁画などを製作。
経緯その2
「帝国ホテル支配人 林愛作との出会い」(繁岡ケンイチホテルの仕事集壁画の巻から抜粋)
大正四、五年東京芸術学校在学中の頃、当時帝国ホテルのご用商をして居た紙商の老舗「はいばら」の紹介で、支配人であった林愛作氏に初めて面会し、初代帝国ホテルの新食堂欄間(高さ三尺二、三寸、横は百五十尺)へ現代の東海道五十三次を画いてくれとの依頼を受け、実際に東海道を写生旅行し製作した。以後彼の依頼で林愛作邸子供部屋の壁画や帝国ホテル宴会場の入り口装飾や駒沢ゴルフ場の全景図なども担当。
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経緯その3
「アントニン・レーモンドから帝国ホテルアネックスボールルーム装飾壁画の依頼」
(繁岡ケンイチホテルの仕事集壁画の巻から抜粋)
帝国ホテル・ライト館以前の事ですが、帝国ホテル東面にアネックス建設に付属してボール・ルームも建設されました。設計者はフランクロイド・ライトの助手として来日していたアントニン・レーモンド氏で、そのレーモンド氏からボール・ルームの四隅に掛けられる翼を広げた孔雀を思わせるデコレーションの依頼を受け、ペンキ・アルミ粉・岩絵具の混成で製作した。
@フランクロイドライトとの出会い
大正10年6月頃のある日例の「はいばら商店」からの呼び出しで新建築への壁画をやってくれとのことである。今度は楽な気持ちですぐ出向くと、フランクロイドライト氏の建築事務所へ行けとの話だ。丁度日比谷の角にバラック建の事務所があった時で、その南京下見の下板へ赤と黒とでフランクロイドライト式のデコレーションが施されてあって、それが中々に新鮮味を持っていた。
 帝国ホテル直営ライト建築事務所と書かれてある日本字もライト様式にすっかりなっている。 早速2階の事務所でフランクロイドライト氏に紹介される。白髪を交えたやや長髪の温顔をカーキ色の詰襟服に似た作業着でまず握手される。

A材料の選定
 話は早速仕事になって十分の一の寸法にするスケッチ風の図面を渡された。見ると色鉛筆で書いたものでよく解らない。現場に行って助手の遠藤新氏からの説明でやや解ってきた。プロメナードパーラーのマントルピース上部壁面である。大谷石とレンガで囲まれたシェルの部分が私の受け持つ壁面である。
 周囲が強く重たい感じだから材料もそれに準ずる可きものを選んでみた即ち岩絵の具と金粉であるそれはフランクロイドライト氏が昔から大変に日本の美術通であった事とて理解があるからこうした材料を選んでみた。後日これ等の材料を持って再びフランクロイドライト氏を訪ねる。
 直ちにOKで世間への第一歩の仕事として世界的建築家の装飾部門を受け持つ事になったのだ。だから私も大いに張り切って現場の仕事を始めたものだ。

B現場の仕事
 複雑な線と形の交錯模様なので始めの裡は手が出ない、苦しんでどうやら必要な線を見出してはデッサンをやってゆく、そしてニカワとニスとで、岩絵具と金粉を塗布していってようやく一方の部分を仕上げる事が出来た。 この間フランクロイドライト氏は無言で私の仕事を反対側のところへ来ては見て居たものだ。それから時々フランクロイドライト氏は仕事の上の道楽を楽しんで私に注文すると云う具合で親しみが増し建築事務所に入社を進められ、その契約をしたいかどうかとの話迄になった。
 私は勿論結構、但し先方は手当ての問題がある、そこで当時劇場の仕事で得て居た日当金5円也を要求したら、一寸驚いたらしい
常雇ではない劇場の日当をそのまま月給にするのだから。世間知らずの私は別段何の気兼ねも無く平然とこの金額を申し出契約した。
ところで月給になった後の仕事の有り方を知らない私は気楽に建築場へ出勤して居たがこれか飛んだ失敗を生んで後で大笑いした。

C手待ち

 それは現場仕事が遅れだした為私の仕事も従って何時の事やら手があいておったのだ。バンケットは勿論のこと、その下の演芸場さえ出来ていないのだから到底仕事にならない。私の受け持つ箇所はバンケット、演芸場、グリルとたくさん在るというのに、どうにもならず事務所でぶらぶらしていた。
 前述の遠藤新氏、南新氏、土浦氏、田上氏、高橋氏、山村氏等の顔ぶれで充ちていた建築事務所で毎日漫談やら、歌やらで朗らかに来る日来る日を楽しんでいた。それにも飽きてくる。7月も終わりが近くなる暑い日は続く。
 よし月給は懐に満ちている、学生時代からなじみになっていた房州に出かけ様と、そのまま一週間ほど出かけてしまい事務所へは何の届けもなしに休んでいった。帰ってから遠藤さんにお小言を云われても現場の仕事が出来ない状態では出勤していても仕様が無いからとのほほんとしていたあの頃を今から思うと羨ましい。


D製作再開
 秋口になってやっと演芸場の天井が出来たのでようやく足場掛りの上で仕事が始まりだした。こうなると現場の仕事という感じが強まってくる。前の場所のときは竪の壁面だったが今度は天井だから手も顔もすっかり上を向いてやるので苦しい。岩絵具が筆の軸を伝わって手元へ流れ来る、顔は上を向いているのでシェルの浮いた部分が落ちては目に入る、首の根元が長い時間がたつと痛くなって肩は凝って来るという苦行だ。塵除け眼鏡をはじめて掛ける。この様な事で天井の四隅にあった部分もどうやら終わって次は最も大きな壁面であり、大仕事でもあるバンケットホールの現場へと遷ったのだ。
Eバンケットホールその1
 現場はまだ大谷石の四角い奴がごろごろコンクリート床に到る所転がしてあるその間を電工、銅工、大工等現場係員が物音と塵に混ざって働いている。そこに組まれた足場の上に昇っていっての仕事だからここは中々えらい場所である。高さも相当高いところにあるのだから。
 さてある日バンケットで時の社長であった大倉男爵から特に発言があり、君も男だ、このバンケットの仕事全部を一ヶ月で仕上げたらどうだと若かったのと人の善い私の事でもあったから、よろしい引き受けた、出来るかぎり働いてご希望に沿うように致しまょう、と言ってしまったのである。
 そこで同僚の若いところを七、八人頼み回ってそれから私は出来る限り時間外の勤務をする様にした。だから朝は七時に現場へ、夕は六時まで働いたが同僚は中々おいそれと動いてくれない。したがって一人で気をもむ時が多かった。

Fバンケットホールその2
 責任を背負った私は無理をしてでもこの期間に仕事を終わらせ様とした。ある時は幅の狭い足場の上で全体的な壁画の感じを見ようと後ろに体を退いた途端、足場のない方へ片足をやってしまった瞬間間一髪、左手で足場丸太にしがみついたので危うく命拾いをした。もしあのまま落ちていったら下は大谷石が転がしてあった上だから命は到底なかったろう、左手にあった絵具皿が身代わりに散っていった。
 こうして約束した一ヶ月を十分に働いて男になったつもりで仕事を完成させたものだか肝心の大倉男爵からは何のお言葉もなく今日まで過ぎていった。これは一寸残念な話である。

Gバンケットホール ドームの高さは1フィート低い
 それはフランクロイドライト氏から与えられた現場の十分の一に依るデザインを渡されて現場に行き、その割り出しを始めてみるとどうやってもここの壁面に納まらないのだ。そこで主任の遠藤氏も立ち会ってもらって壁の高さを計ってみるとこれは以外高さが約1フィート(1フィートは30.48センチ)足りないのだ。現場主任も呼び出される、事務所の連中も呼び出される、それ程問題は広がっていってが今更どうにもならない。
 あの立派なドームが全体的に1フィート下がって出来がっていったのだからこれに付随したあらゆるものが短く出来上がっているわけだ。だから益々問題が重たくなって遂に現場主任が責任を取られる等の事件にも発展したのだ。
 思えば私の受け持った壁面の寸法からえらい騒ぎになってしまったので、私も何とかしてこの場をうまく解決出来ぬものかと、アイディアと寸法との間を取り持つ役目を感じてどうやら纏めたものである。
 銅工、木工、大工の仕事をうまく生かしたものに本金箔と岩絵具で立体的な効果を照明の力に生かしたのだか、不幸、戦災で焼失して現在のものは全く異なったものが小さく画かれてありドームの感じ等は全く昔の面影すらない。

Hコンクリート建築の先駆 ミューラー現場主任
 なお特筆したい事は、我が国のコンクリート建築の先駆として数々の教訓を与えられたフランクロイドライト氏と共に現場主任をして居たミューラー氏に対して十分な感謝をしなければならない。コンクリート建築の妙を十分に生かしたこの建造物は時の警視庁建築課は現グリル入り口のひさしを検査して危険だから改造せよと命じた。ところが偶然関東大震災に依って異常なしという無言の証明が生かされたので自然と改造論も解消していったと言う話がある。
 始めはK土木会社に請負わせてこの建築工事をやり出したところ、コンクリートの混合過程がミューラー氏の厳密な注文とは違い、退いたのでホテル直営という日本として最初の組織に依る建築工程を始め出したのである。

Iバンケットホール完成
 さてこのバンケットホールの完成をもってホテル直営による建築事務所も閉鎖されるときが来た。思えばフランクロイドライト氏の設計に対して、その女房役として現場のミューラー氏と共に日本人技師の遠藤新氏、南信氏、土浦亀城氏等の主脳部と共に日本の石工、銅工、木工、左官等の一切が至難なコンクリート(その頃として)建築と取り組んだ賜物としてあれだけのものが出来たのだと思う。そして遠藤新氏の並々ならぬ助力と努力を充分わかっているものだ。
 バンケットホールの床も全部磨かれ、仕上げられた完成の日に遠藤氏はこのバンケットホールの中央部にの床に大の字に寝て暫く目を閉じていた。この大建築に携わって六年近くフランクロイドライト氏を助けてここまで来たのだから最もな事と私はこの時の状景を昨日のように思い出す。なおこの壁面に使用した岩絵具は当時の金額にして約四千五百円程で東京中の絵具屋に一時的ながら岩絵具が品薄になった程であった。

Jフランクロイドライト帰国
 ここで話を少し戻すがフランクロイドライト氏が米国へ帰られたのは確かこのバンケットホールが完成以前だったと思う。本国で他の仕事が待っていたので急いで帰国されたものだ。そしていよいよ横浜から乗船して帰られるという朝もちゃんと事務所に出られて、小田原に予定されていた某ホテルの設計図をプランから遠近図のスケッチに定規を手前から軽いタッチで先の方へと線を引かれて、立ちどころに見事なスケッチが生まれてゆくのを私は驚きの眼で眺めていたものだ。下手な画かきの到底及ぶところに非ずである。
 そして汽車の発車時でもある正午近く迄筆を運ばして、最後に軽く紙上に鉛筆を投げて我々と硬い握手を交わされ、いつもの仕事服の詰襟服に似たカーキ色の儘帰っていかれたのだ。
 この四、五日前赤坂の菊水で行われたお別れパーティの席上、林支配人から私は呼び出され、フランクロイドライト氏を前にして君によい話があるからとの事。それはフランクロイドライト氏の厚意に依って君をフランクロイドライト氏の事務所に連れて行きたいが、どうかそのことにして昼は事務所で夜は劇場で舞台装置の研究をしなさいという次第で、私は感激した。そして至急腹を定めて返事をしろとの事だった。
 この絶好なる機会も私の決断力不足から永遠に離れていった事を残念ながらここで告白する。

K帝国ホテル演芸場
 かくてホテルのほうは完成され他場所からどしどし営業を始めてゆく。そして演芸場も当然始められたので私も側役という地位でのこの場所で働く事になった。
 この演芸場のステージ構造について一つ紹介しておきたい事がある。それは半円形の幕の部分であって、どんなものにでも利用されるというものではなかったが、ある種の演劇、例えばシェークスピア物等には最も効果を生むであろうと思えるものであった。舞台の上手、下手にあった大谷石とレンガで出来たバルコン、半円の幕を釣ってあるこれも半六角形の突出天井の構造等で、これ等に配するに、この幕が実に効果な物であった。
 アスベストの材料による防火幕であって、それに本金箔を使ったフランクロイドライト式デザインの模様が油絵具で縫い取りのように画かれてあった。そしてこの幕の前をさらに装飾的効果を与えるごとくきりこの硝子を配した金属と木彫を金意図で綴った驚くごとき金の網が前述の金のアスベストのカーテンの全部を取り巻いていくというものだった。
 この二本のレールがかなりの重量のあるものをカーブ状にひいてゆかねばならないという代物なのでその構造が非常に難しく、その取り付け方法は完成されずに失敗していった。そして一般的な使用にも適されないという舞台上の構造と共に早くも改造されてしまい、現在のと同じ形式による割綴帳式のアーチに改装されたのだ。
 しかし下図の如く記憶図を画いてみると使い方によっては面白い物が生まれそうと思えると同時に、当時のことを思い出して一段と懐かしさが沸いてくる。
帝国ホテル演芸場
最初の帝国ホテル演芸場
帝国ホテル演芸場
※上記イラスト内の繁岡ケンイチ(繁岡鑒一)書き込み
ライト氏に依る原案の帝国ホテル演芸場舞台 これは後々改装されていった。
私の記憶に依るものだから幾らかの違いがあるかも知れないお許しください。

Lプロメナードパーラー角の四角い大理石彫刻
又新しく思えてくるものの中、特にコンクリートの使い方に対する妙味は実に見事なものばかりで、軒先を飾る銅と大谷石の使い方、演芸場舞台後部に作られた、
大道具の出し入れ口の大きな突出しと、大谷石の使い方に対するその用意、プロメナードパーラーの角にあった四角な大谷石の彫刻の間から清水が湧いて出るようにして、その受け口に生花が出来る様に前述の四角型の曇り硝子の中に電灯をつけてそれ等に光の効果を生まそうとしたり、こうした微細な点までも神経の行き届いた建築家は全く驚異そのものだ。

プロメナードパーラー角の四角い大理石彫刻
※上記イラスト内の繁岡ケンイチ(繁岡鑒一)書き込み 
四角なものをオトーフと云ってはライト氏は設計図に書いていた

繁岡ケンイチ 繁岡ケンイチ

Mフランクロイドライト礼讃記
 この他小物の部としては食器の皿模様からカップ、ミルク入れ、コーヒーカップ、ナプキンの織模様、大椅子の地模様からその選択、カーペット、カーテン、ヒーターカバー、レターヘッドと一寸勘定してみても以上の如きものであった。以上私はホテルの壁画の巻きを書いたのにどうやらフランクロイドライト礼讃記に落ちていった。
 仕方がない個性の強いものには参ってしまうから、それにしても日本人の当事者がこうした大建築家に一切を委ねて仕事をやらせた事にも称賛したいと思う。あれから十数年戦後派を含めて大建築家が続々で出来たけれども、渋い味と落ち着きのあるものは一つも出来てないし、雅趣の点となったら全く足元にも及ばないものばかり。暗いとか使いずらいとかの理由はあっても全体としての感じは日を経るに従って益々輝きを増すことだろう。完


 バンケット屋上の女神像
バンケット屋上の女神像 
 ※上記イラスト内の繁岡ケンイチ(繁岡鑒一)書き込み
バンケットの屋上にあった初めの像は翼を拡げた女神の像だったが、今のは何だか解らない。高い所に取り付ける形状のは寸法の割合が中々難しく遠藤氏も再三研究され現場から日比谷からと変えて見ては直したが解決されないままになったものだ

 
 帝国ホテル鳥瞰図
  サイズは横6尺縦3尺位で絹に日本画材料で仕上げたものだが太平洋戦争で焼失
 帝国ホテル鳥瞰図

記念撮影(右端繁岡ケンイチ) 
 帝国ホテル記念撮影

2列目左から7番目繁岡ケンイチ 
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 繁岡ケンイチ 帝国ホテル 当時のマッチ 繁岡ケンイチ 帝国ホテル 当時のマッチ 
 
 繁岡ケンイチ 帝国ホテル 当時のマッチ  繁岡ケンイチ 帝国ホテル 当時のマッチ

 
後列一番左 繁岡ケンイチ 
 帝国ホテル記念撮影2
 
帝国ホテル全景 
 繁岡ケンイチ 帝国ホテル 当時の写真
 
 帝国ホテル中央玄関復原記
 
  「帝国ホテル中央玄関復原記」
発行 2010年3月18日
        著者 博物館明治村 建築担当部長

  西尾 雅敏
 つい最近、明治村の売店でこの本を発見しました。その中に昭和45年9月16日パレスホテルで、開催された旧帝国ホテル移築委員会準備会の会話が記載されており、繁岡ケンイチも登場しています。驚くと同時に復原記の内容がとても興味深く一気に読み切りました。西尾さんに大変感謝しています。 繁岡 剛

ライト館開業90周年記念企画の記念展示が帝国ホテル東京にて2013年9月1日(日)〜2014年3月31日(月)
本館1階 正面ロビーで開催され、その中に繁岡ケンイチの作品も「ライト館時代のグラフィック」として、展示されました。
 
 パネル  展示ケース 
 帝国ホテルライト館記念展示1  帝国ホテルライト館記念展示2
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