| 帝国ホテル壁画の巻 東海道初絵の旅 繁岡ケンイチ(繁岡鑒一) |
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| あらすじ 大正四年五月、紙商の老舗榛原商店の紹介で、帝国ホテル支配人「林 愛作」から帝国ホテル新食堂に現代の東海道五十三次の壁画を依頼され、写生旅行に出発した。 機関紙ホテルレビューに1954年(昭和29年)2月から8月迄掲載 |
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| 帝国ホテル出入商人用門鑑 | ||
| アルバイト学生を苦学生と言っていた頃の大正四、五年からこの話は始まる。 私もその苦学生として、東京芸術大学の前身で親しみ深い東京美術学校在学中であった。紙商の老舗(和紙のはいばら)はその頃帝国ホテルの御用商をしていた)からの急な呼び出しで、帝国ホテルの食堂壁画をやってみないかとの話だ、苦学生でなくたって発奮出来る仕事だから私は大いに感激、早速時の支配人であった林愛作氏に面会する為に出かける事にした。 |
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そして同商店員に付添われて、山下橋側入り口から参入する事になった。とその時同行の店員の右手に何か木の札が見えるので 「それは何か」と聞きただすと 「これがないとホテルへ入れないのだ」と云うのである。出入商人用門鑑なのだ。三、四寸平方の木札で株式会社帝国ホテルと焼印で捺されてある通行証なので手垢で汚れた時代物である。当時のホテルが如何に封建的であったかが伺われよう 赤煉瓦と鉄柵で囲まれた前庭から中央玄関までの登り道の重々しい感じと来たら、我々苦学生にとっては全く以って性に会わない、今新館建築中のところが全部前庭であった。 |
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| 林愛作 | ||
| 今日は、付添人任せの事だから、少しは気軽だ、入口のドアーを押して入るとドアーマンの妙な応揚さを横目で通過、ページボーイの案内で悠々林さんの室に導かれた、其処に大きなデスクに向かってた和服姿、一寸小柄な身を向きなおして、「まあ腰をかけなさい」と云われ眼がヒドク物を云いそうな、グリとした眼の鼻下に短い口髭をつけた垢抜けした紳士であった、四十前後を感じさせる、一応仕事に対する希望、その他割合に物解りの早い話で会見を終えて現場を見てくれというから、こちらもその方が好ましいから、すぐに同道した。 そこは全館の中央部にあたる食堂の南隣に新食堂を増築した、その上部にある欄間へ現代の東海道五十三次を画いてくれという希望なのだ。旧食堂には、すでに五十三次を広重風の東海道が画かれて、少し時代色がついていた。 ここで私はよし、それなら東海道を写生旅行しても、この仕事をやり上げ様と腹が定まってので直ちに快諾、大体の壁画を計ると高さ約三尺二、三寸、横は全長廿五、六間、つまり百五十尺位になるのだから相当なものである。 |
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| 帝国ホテル第一印象 | ||
| ロビーでお茶とケーキを接待され、食堂をもう一度見直して考想していると、ふと玄関のほうを見ると、フロント受付で事務をとって居られた人が後で解ったのだが現社長の犬丸さんど富森さんであった。又食堂主任の岩佐さんに会ったり、宴会の事務所では、林英作さんがワインカップの良し悪しを透かし見ては、悪い分をそのまま屑箱の中にガチャンガチャンと捨てて、壊してしまうので苦学生の胸を驚かせた等々、ホテルの裏表を少し味わったのが三十年前の帝国ホテル第一印象感である。 | ||
| 出で立ち | ||
| さて、五月も末のそろそろ初夏の風が吹く頃、学校の方は好い加減にして東海道は絵行脚に先ず榛原商店主に後援を願って、金二百円也(当時の金額としては大金)を前借の上悠々東海道は京を目指して初絵の旅に出る。時に二十三歳の青春であった。 ところがいよいよ出発と云う前日になると持病の急性扁桃腺炎が始まった。鏡でみると喉がすっかり赤くなっている、ここまで来た機会を今更延ばすのは残念だ、若さも手伝って、兎に角東京駅から藤沢目指して汽車に乗る。(藤沢迄は二三回日帰りでスケッチしておいたから) 大正の絵膝栗毛よろしくの出で立ちに付いて一寸ご紹介して置く、先ず下の方から新調の大鋲付の軍靴まがい黒靴と、ゲートル海軍形黒ラシャ製、綿製のコウモリ傘、大画帖を五六冊と、雨用コートを一括りにした革バンド、手提げ、三脚、肩からは画板を掛けて、中古学生服と、まあ以上の様な身構えであった。 |
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| 平塚の友人其の一 | ||
| 正午近く藤沢駅下車、旧東海道へ出る。六月の太陽はたださえ強いのに半病人のとっとは相当にこたえる。傘を差してもまだつらい、唾を飲むのも痛い、それでもやっと茅ヶ崎迄は歩いたがスケッチも出来ない、ここで平塚迄の第一日行程を急に汽車に変更、始めから予定して居た友人で我がパトロンの別荘に向かった。 S君と云う平塚町(当時は町)一番のブルジョアーで平塚の西海岸唯一の別荘に着いたのは夕方近かった。 何しろ無理をした一日だけに疲れも出たから早めに寝る事にした、まだ喉は痛む、神様明日は直して呉れよと祈る最上等の布団に包まって。 |
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| 平塚の友人其の二 | ||
| 翌朝は松に吹く風の音と波の音に眼が覚める。六尺幅の大きな縁の南側ガラス戸のカーテンを開いて旅の第一夜から起床見渡せば、小松の密生した林に囲まれたこの家は砂丘と松と桃の織り成すウネリの地形中に何処までが邸内なのか解らない、西方を見れば霊峰富士の頂上が箱根の右に松越しに見えて相模湾の雄大さがコバルト色に光っている全くこれはたいした場所だ。 爺やと二人暮らしのS君は物静かな人物で私の画を展覧会から買い上げてくれて以来の交友である。 朝食を二人で摂る、どうした事か喉の痛みを忘れている、そこで又も鏡に映してみると、赤みが少し消えて居る。海気を呼ぶこの地辺の空気が自然と吸入器の役目をしたのだろう。元気が付いたので急に出発を思い立つ、S君はもう一日延ばしたらと言ってくれる、断る、では箱根まで一緒に行きたい、よろしい、二人連れの旅路になって、出発した。 |
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| 大磯名物粧団子 | ||
平塚はずれの花水川に映る高麗山の緑の美しさ、大磯の虎と関連の深い粧阪(けはい)にかかる、昨年まで東海道線と交差していた踏切のすぐ右手、昇りきった右側に、一軒の茶店があった。ここの団子が美味しいからと云うので腰を下ろす、成程一寸はいけるが味より形が面白いので印象に残る。最もこれは東京でも見た事があるが、それよりも極めて小さい団子で五本の串に集めて焼いたものその名も粧団子と呼んでいた。(カット参照) この家は今も残っているのが汽車の窓からよく見える。勿論今は茶店ではないし代も変わっているだろう。大磯では鴨立澤その他紹介され尽くされているから一とびに小田原に話をうつす。 |
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| 小田原外朗透頂香(ういらうとうちんかう) | ||
| この小田原ではその頃特異な存在として、箱根に掛かる直線になったところの町並みにあった外朗透頂香(ういらうとうちんかう)の店造りであった、これは薬舗だが八棟の天守閣に似た店の造りが白漆喰仕上げでその棟が三つ並んでいた屋根の勾配とその棟のカーブから来る不思議な感覚が昔箱根を越えてくる人々の眼をどの位掴んだ事であろう、思いつきもさることながら中々宣伝的にも効果100%だ。古本の東海道名所図絵五の巻に記録されてある文に曰く 「小田原外朗透頂香は大覚禅師来朝の時より日本に伝わり北条氏綱ここに在城の時八棟造りの薬店 を許して弘めさせけり」 とある。不幸この歴史的な建築物も大正の震災で消えていったのである。 |
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| 箱根路前半 箱根越え | ||
| 小田原で一泊した我々は翌早朝箱根へと出発した湯元の三味橋でS君と別れる。箱根越えは元より旧道を味わう事にあるのだ。三味橋でS君は記念の写真を撮ってくれた。 湯元町が裏から眺められるあたりから早川をわたって路は細くなり石畳の昇りにかかる六月というのに老鶯があちらこちらにさえずる、野ばらは芳香を漂わす。初夏の陽はいよいよ強い、緑深い塔ノ沢あたりの木々と早川の流れの音が一人旅となった侘しさをなおさら感じさす。少し行くと南画の泰斗小室翠雲先生の別荘がここにあったのが今だに思い出させる。 畑宿の部落に至るまで全く人に遭わず、畑宿を過ぎて道はいよいよ急となる九十九曲を越え甘酒茶屋あたり双子山の谷間を登り詰めてやっと芦ノ湖が光って見えるところまで来た。 旅は侘しいものといえ、友達と別れてすぐに忘れられたようなこのみちを来たのだから旅愁というものをこれ程強く感じた事は始めてである。だから芦ノ湖が見えて人の住まう元箱根町が見えたこの気持ちはいまだに忘れられない。昔の旧道はこれ程静かであった。 |
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| 元箱根の町 | ||
| 元箱根の町に入って感じたものは古い山の宿場だという事は勿論だがそれにも増して不思議に思えたのは異国的な香りが強い事だった、ペンキ塗りのスウベニアショップのある事、湖上に浮かぶヨットの形やら、色やら、それにホテルがあった事。看板等に英字が見られる事、等々だ。そこを昔のおもかげそのままの山籠が観光の人を乗せてゆく。古い日本の呼吸と今日の外国の呼吸が打ちかりあって居る山の宿箱根町。 | ||
| 松坂屋ホテル | ||
| 私はこの矛盾した空気の中に一人ぼっちで着いたんで、懐具合もまだ暖かいので今夜は一つ豪華にホテル泊まりとしよう、こう決めたので町外れにあった松坂屋ホテルの帳場へ入った。 学生服が物を云うこの自信をもって、ところがその頃のホテルと云う看板は今のと異なり立派でしかも、確かなものばかりだったのでバス付の部屋で金五円也にしてもらうまでには中々交渉が難しかった。それに避暑地のことであり時季が来ていた関係もあったからだろう。 ベランダ付ガラス戸の向こうは芦ノ湖だ。少し雲が低いが安楽椅子の木地に彫り物してあるのが、日本製ながら外人趣味を生かして山のホテルらしくよろしい、あいにくこれ等を通して芦ノ湖の景勝が見えないこのベランダで向隅で二人の外人がチェスをやっていて情調深いものがあった。 夕食は勿論食堂でビーフステーキをやったと思う、やがて部屋に戻ってバスには入る。西洋風呂に入ったのはこれが始めてで少し贅沢だなと思う。一人だけ使った湯をそのまま捨ててしまうので、ベットも始めてで寝つき大いに悪かった。 |
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| 箱根路後半 | ||
| 翌朝は少し疲れていたので昼近くここを出ようと思ってロビーまで来ると昨日の外人が今日も又昨日の通りのゲームをしている。聞けばこの外人はドイツ人で軟禁されている非戦闘員だそうだ。なるほどこの頃は第一次世界大戦の最中でそれとなく監視されているとの事だ。 山の空気が急に冷えてきて湖畔の雲は益々深く箱根権現は全く見えない。 勘定をすませ古杉の街道を西へとてくり出す。関所跡にあった一本松の形が心に残る。 暫く行って路は再び上りになる。雲は益々深く密度が濃くなるので一間先がやっと解る位だ心細い限り。馬小唄が聞こえてきてもその姿が見えないまでに過ぎて行ってしまう。道はいつしか下りにかかって依然石畳は続いている。 急に雲が切れた、とそれから見えてきたものは海だ、海岸線だ、畑が、川が、陽も当たっている家が、山が、みんな見える、駿河湾てこれだな、三保の松原はどれだ。この感激、私は暫くスケッチする事すら忘れてこの壮観に見とれていった。 実朝の歌 箱根路を吾越え来れば伊豆の海や 沖の小嶋に波の寄す見ゆ 全くこの通りだ。 右手の雲が切れて富士の横腹が見えて来る。ああもう沢山だ。 これでは絵筆とるどころではない。 こうした状態に引きずられ三嶋の町に午後下って行ったのだ。 水の美しい町、水の豊かな町、しかし沼津への道はせまい、そこを電車が通る。旧道の儘の路巾を通る路線だから歩くのに都合が悪い沼津竹の網代垣が続く、沼津への一里も歩いて駅前の宿に着く。 |
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| 沼津の宿 | ||
| 帳場の土間で番頭が一通り私を上から下まで眺めた挙句、貧乏絵描きの書生と感じたんだろうご案内と云う掛け声で通された部屋は階段すぐ側にあった離れ部屋だった。こうしてぽつねんと座ってみると今夜の宿は少々寂しい、昨夜の宿の豪華さに引き換えて天地の相違だ勿論山の上と下だからとまああきらめて早寝だ、駅前なのでいろんな雑音が睡眠をさえぎる寝付かれない、夜具の垢染みがが目に付きだす、気持ちが悪い、その上に腰の辺りやその他、体の所々がむずいて来た。 元来私は蚤を憎む事甚だしく事至らば素手で体中の何処の奴でも人差し指と親指で捕まえてしまふのだ蚤取りの名人ながら今夜の奴には参ってしまった。 出て来る出て来る捕まえども、後続が絶えない、記憶はないがこの部屋の分はある程度取り尽したと思えるほど、お陰で徹夜に近い努力をしたから翌朝の目覚めの悪い事、部屋の様子をよく見るとどうも布団部屋であったらしいのだ。 学生の身分には相当して居るのだろうお値段にも関係があってのことだから仕方がない。以後絶対に駅前には泊まらない事にする。 注(この部屋は後年ここを訪ねたときになくなっていて沼津軒とか云う食堂に変わっていた) |
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| 沼津 漁船 | ||
さて金一円三拾銭也の宿泊代を支払う、そして千本松原が見ながら徒歩で出かける、町を右へ左へといつくか曲がって沼津公園から抜けてごろ石の海岸へ出る。松の枝振りが見事なのが第一に目を奪う、そしてこれ等の松が密生して西に向かって茂っているのが紺碧の海と好対照をしている。天城の裾が断崖をなしている駿河湾これを背にした海岸の砂地に置いてある幾つかの漁船がよろしい、人力で漁獲にゆく櫓漕ぎの時代なので今の発動機と異なって中々に味な形なのだ、従ってそれ等のもので私の写生帳は満たされてゆく、夕べの不快をここで一掃した感じだ。 |
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| 名家の庭 | ||
| 再び沼津の市内へ入ってから西への旅路を続ける、原の町へは平塚のS君からの紹介状にて明治天皇が東京の遷都の節お泊まりになった名家の庭を拝見することにしてあった。 早速お訪ねすると当主が直接に歓待される、愛鷹山と富士をバックにしたものでこれ等を上手に取り入れてある。そして右手寄りに赤松を生かした造園で、なまこ壁の蔵作りと共によい効果をあげている、人によってはあまりに常識的な庭園だと云うかも知れないが。 芝生のある庭の飛石と共に中々捨てがたいものであった。現在この家がどうなっているかしら、保存されている様願う。田子の浦から見た富士よりも私にはずっとこの庭からの富士が印象に残る、この家の名前を忘れてしまったのが残念だ。 |
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| 福禄寿頭のおやじ | ||
| 鈴川から富士駅へ汽車の厄介で、あれから富士川の河原についた、ここから見ると富士の高さがしっかり解るので早速三脚を据えてスケッチを始める、一時間位で済んだので又西へのたびを始めようとすると、この河原へ始めから来ていた福禄寿の頭によく似たおやじが宿をどうすると聞くので、今夜はこの辺で泊まるのだと云うとそれなら俺しの家へ来いと云う宿屋の客引きかな、よしでは学生の身分を知ってのことだから宿料も安くしてくれると思って任せてしまった。だから岩渕の町へ二人ぶらぶら画の話やら風物の話やらして歩いた。岩淵の駅が間近い宿だが、このおやじが気に入ったので泊まる事にした。萬屋と書いた軒燈が入り口にある三階建の古い家だった、番頭から娘らしい女中、その母親らしい中年の女性等一家総出で迎える家庭的サービスにこっちは上機嫌だ。 | ||
| 萬屋旅館「富士見の部屋」と画帳 | ||
| 夕食後、形通りの宿帳を持っておやじが来たがもう一冊不思議に分厚い帳面を持っている。さて名前、年齢等々を書き込んだ宿帳と引き換えに問題の帳面が出される。 五寸に一尺ぐらいの横綴りのもので用紙は炭酸紙であるから至ってお恥ずかしい代物だ、でおやじの希望はこれへ何でも絵を描けと云うのだ、つまり画帳なのだ、出発迄でよいと云うのでとりあえず食後でもと片隅の机上に置く、又曰く「その窓からあした早く起きて朝富士を見てくれ」と云う、つまり富士見の窓だ、そしてこの部屋は特別室の富士見の部屋とか云って居た、NO1の部屋らしい成程よく見れば夕べの沼津とは似ても似つかぬ上部屋で学生には一寸居心地がよすぎて落ち着けない。ここで一風呂浴びて例の画帳を一応拝見に及ぶ。第一に富士の画が書いてある。見れば和田英作先生のものだ。それから日本画、洋画の大家連の名画が、これは素晴らしいもの。紙質がもっと良い物であったらと思う。こんなに諸大家が書かれているにはこっちが参って気後れしてしまった。 おやじがさっき云った通り和田先生始め諸大家がこの宿へ何度となく来られてはこの窓からの富士を書かれていかれるそうで、そうした機会を重ねる度にこのおやじは画書きと話すのが何よりの慰めになっていったのだろう。こんな次第で私も十分優遇され宿料も沼津より余程安かった。 |
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| 博賭の宿 | ||
| 萬屋全員の見送りにこの宿を出る。おやじは町外れまで行こうと云う、かくて私は海辺に近い蒲原、由比の町々を過ぎて興津川のところまで来た、薩垂峠が断崖になって迫ったあの形と富士との対照が好いので三脚を構えてスケッチを始める。すると又此処でも一人の男が現れて何かと画の話を始めるのだ、今度のは人相が悪い福禄寿の顔ではない、そして今夜は己の宿に泊まれと、これも云いだした。断ると具合が悪くなりそうな気配がする。そこでまたまた興津の町へ二人連れで歩く事になった、有名な西園寺侯の座漁荘のあたりから清見寺へも参拝し、一応その宿へ行くことにしついてゆくと、興津の町も過ぎた、松並木に出るとすぐ左側の家に案内された、名前なんか見る気もしない宿屋で、料理屋で荒物屋でと云った店造りからして嫌な感じだ。帳場の側から上がって二階の裏座敷へ案内された。割合に新しい家だったから綺麗だが廉普請である。その眺望は案外好いのがまずまずと云うところだ。女中が来た、宿屋らしくない女中である、裏の田浦越しに東海道線の列車が通る、夕食を済ませる。この家に似合わず味は好い、今夜も早寝だ。 | ||
| 夜中のドタバタ劇 | ||
| それから暫くすると突然の音に目を醒ます。物が飛んで当たる音、壊れる音、女の声、鈍い人の足音が布団の中で私の胸を震わせる。こんな夜更けだ、逃げ出すわけにもゆかない。そして何時間か経ってやや物音が静まったのでほっとしたが大いに疲れた、そしてうとうと眠くなったのが夜明け間近だった。翌日は静かな朝、それに天気も上々、朝の食卓で女中に夕べの事を聞いたが駄目だ。想像してみるにここの女主人は博賭の妾である事、夕べはその旦那とそれらのグループが何かを行った挙句お定まりのごたごた騒ぎ。 以上で奥の二階に泊まった客の私がよい迷惑をしたのだ、そして翌朝出発する時この旦那が帳場の側で微笑みしながら薄気味悪く御世辞たらたら云うのに、「此処へ又来たら寄ってくれ」と、とんでもない隣に来たって寄るものかと自分に云う。こんな様な理由で面白くない旅路を続ける。 |
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| 清水 日本的風景の代表 | ||
| 嫌な気分での今朝は旅路だ、次の宿場は清水の町だ。成程ここには昔、有名な親分が居たのだが、夕べのは小形過ぎる。清水も発展して港が出来た、今日では日本の貿易港として有数なものとなったので自然異国的空気も強くなって来ていた。 ここまで来たのでついでに回り道をして竜華寺に寄る、あそこの眺めは箱庭の様だが日本の名所の一つに数えられる、富士の裾がみごとに見られるのと駿河湾の入江が非常にきれいだ。典型的だか日本的風景の代表とも云える。 | ||
| 静岡七間町の宿と安倍川餅 | ||
人気の好い静岡へは汽車で着いた、七間町と云う町へ入る。今日は交番のお世話で宿の取り定めをする。親切な巡査に世話してもらう。そして私の懐具合を十分参考にした上選んでくれたのだがその宿の名前を忘れてしまったのが残念だ。古い家で信用の厚い宿屋だった、七間町の通りにあった事を憶えている。店から渡り廊下でそれもスノコが置いてあるのを幾つか渡って、一番奥まった離れ座敷に通された、平屋建てなので感じがよく庭も十分あるので家庭的な感じが多い、この宿の娘さんらしいのが給仕に出て来る。だから食事も当方は少々上がり気味で話も碌々出来ないのだ。 夜分は気持ちに余裕が出来たので一寸町に散歩に出て見る。私が甘党の故かしるこ屋が目だって多いのに驚いた、夜店を一通り見物して宿に帰る今夜は久しぶりでよく眠れそうだ。勿論これは先刻の娘さんの好印象も原因だろう。静岡の泊まりは静寂そのものだった。東京出発以来久し振りで気持ちよい春を迎えた。気分が好いので今日一日を休養、そして市の内外を見物する。二日を過した静岡を出発安倍川畔であべ川餅の茶店に小憩、これからが五里の行程で山路もあるから、しかし休養をとってあるので足のほうは安心だ。 |
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| 宇津の山越え道 | ||
| 安倍川を渡ると道は大きく右に回って青葉の香る山狭にかかる、とろろ汁で有名な吐月峰等を経て蔦の細道の入口を左手に見付ける。高さ三、四尺の表示杭に蔦の細道口と書いたのが建っていて巾三尺程の路が草むらの中に消えている。 これが上古の宇津の山越え道であって古詠が多い するがなる宇津の山辺のうつつ身も 夢にも人にあわぬなりけり 宇津の山さこそはかねて聞きしかと かすみをわたる蔦の細道 細道や蔦の葉うらの閑古鳥 ここを過ぎて暫く行くとみちはいよいよ山にせまり空気も冷えて来た様に感じられる。やがて芝居でも有名な宇津の谷峠に近い山間になってそこの小部落に入った。ところが中型の犬が一匹吠えてついて離れない。峠の下に出来た隋道の入り口に近いところまで来てやっと元の方へ引き返していった、この間十数分はかかったろう。土地に人に聞いたら私が洋服を着ているからだと云う、学生服でも洋服には違いないのだ。その頃はここらを洋服で歩く人間が余程珍しかったのだ。犬に気をとられて本職を忘れた。さて旧道は竹薮が一面に生えて居るので到底峠道は越せないから真下を貫いた隋道を行く、そして西口に出た。成程この辺の様子は気味が悪い、古い地蔵堂らしいものが、苔蒸す杉の木立に囲まれて建っていて薄気味悪く凄い。宇津の谷峠の舞台面そっくりの感じである。そして薄ネズ色に粉をふいた木地の鼠格子と破れ障子は昼間とは云え不安を感じさせずにはおかない、もう一度峠を振り返る。 |
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| 岡部の茶店 | ||
| ここから道は少しずつ下りになって岡部の町になる、細く長い一と列びの町がくねりくねって西へ延びているこの町は、人通りも稀な沈黙の町と云いたい位静かであった。そして町家が絶えると又松並木の平らな道になる。お昼も過ぎているからこのあたりで一休みしてご飯にしよう。こう思ってゆくと幸い松並木に一軒の茶店があったので腰を下ろす、広重の版画の人物になって。ここは原子鮪で有名になった焼津から丁度西北に位するところだ。茶店のお婆さんが何が好きか、鰹の刺身でご飯は如何だと云う、時は今5月だピッタリと来た、それを注文する。白米のご飯を丼に盛ってくれたので生姜醤油でこれをやったものだ。 松吹く風は五月の若葉を渡って暖簾を揺るがすと云う理でこの味千両だ。縁台の赤は木綿でも、結構藤棚は新緑の葉を光らせているし、田浦ではもう苗を植え付けている。見渡す空は真青で高い、こたを背景にした鰹丼の味は恐らく天下一品だと思う。私はお婆さんに十分感謝して御茶代を含めて金五十銭也を渡してここを立つ。そして一寸水郷を思わせる藤枝の町へ入って汽車に乗る。五里の道は少し疲れた。 |
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| 島田の宿場其の一 | ||
| 島田で下車、朝顔の物語で有名な大井川の渡し場である島田の宿場へ今夜は泊まる事にした。駅から島田の町の中央部へ、それを左に曲がって大井川の方へと歩いて行くと右側に一軒の古びた宿を見つけた。今夜は何かの参考にもなろうからと、この宿に定めて商人宿と書かれた行燈のある店先から、そして先ずは二階のお部屋へと案内される。ところが汗とあぶらで妙な臭いのする浴衣を出されたがこれから不安が始まってきた。風呂場に行く。裏の方にある小さい風呂場はすでに陽が暮れかかっていたので灯りがついている。これがなんと石油ランプ灯なのだ。湯気で暗い灯りはなお暗く、流しの板が朽ちかかっているらしく、柔らかくくぼむのだ。こんな理由で風呂等は入るどころかそのまま部屋に戻り、口実を作るのに大骨を折った上、ようやくここを飛び出した。 | ||
| 島田の宿場其の二 | ||
| そしてもと来た道を宿を探しに歩く。土地の人に聞くと新築なったばかりの宿を教えてくれたので、本通の左側にあったその宿に行く、番頭が中々こっちの希望を、つまり泊めてもらえないのだ。安くしてくれと値切っては居ないから、多分私の格好から判断して危ないとでも思ったのだろう。東京を出て日数も経った事だから、汚れも目に付いてきたからと自問する。でもやっと話がついたので表二階へ、立派な部屋だ。中庭のむこうは大広間になっていて宴会が始まる様子だ。こっちに無関係、風呂を済まして、夕食も終え寝る事にして床を頼む。その頃から大広間は一段と騒がしくなって三味線も混じっての陽気さに到底眠られるどころではない。しかも土地っ子はこの騒ぎが大きくなるにつれ益々馬力をかける感じだ、と云うのは昔からここの大井川か゜川止めになる度に客が永く逗留する。そこで退屈してくる。遊ぶ方法が考えられる。だから土地っ子のサービスは必然的に上手になるとこう私は察したのだ。察しても眠られない。嘆いても仕様がない。自然に負かして眠られる時を待った。 | ||
| 小夜の中山 | ||
| 翌朝例に依って寝不足を汽車で大井川を渡る、金谷で下車、直ちに街道筋に出ると登りになっていて登りきったところが金谷峠の頂上で、汽車は直下をトンネルで通過している。で、この峠を下ったところが小夜の中山で有名な夜啼石のそこまで来た。路の右側に置かれた丸味のある黒色の石である。その頃は石杭の側にぽつんと置かれてあったが、今では宣伝的に利用されて居る様な気がする。 | ||
| 弁天島 | ||
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| ここから数駅は記す程の事もないので浜松を過ぎ舞阪から弁天島まで来た。当時は戦争成金がこの地へ寄り集まったもので東と西の連中がここで贅を競った。そうした場所とは知りながらこの気分は悪くないから一泊する気になってMと云う旅館を選ぶ。海側の部屋へと案内された、遠州灘の波濤が座ってて眺められる上等な座敷である。気の弱い私は宿泊料が気になるから女中に確かめると金五円也である。少々勿驚りだ、箱根のホテルと同値段であ。勿論食事は付いている。場所柄だとあきらめて、夜はスケッチの手入れやら整理やらして、避暑気分にもなったりして寝床に入る。 翌朝は好天気。太平洋上の日の出を見ながら朝の食事一切を済ます。天気も好いのでもう一日滞在したい気分になるが宿賃が高いので先を急ぐ事にして店を出る。煙草がなくなったので聞くとここの隣が同業で且つ煙草の販売している。 主人らしい感じの人が出て来て煙草を出しながら貴方は美校の生徒ですねと云う、実は私の息子も音楽学校へ行っているので同じ上野の隣同士で妙に懐かしいと云うのだ、しまったこう云う主人なら何かと理解も持って呉れるだろうに。そうかこの家に泊まればよかったのに、、よし今晩こっちへ厄介になろうとこの主人に話し込むと、そればかりは御免蒙りたいと云う、商売道義で許してくれと云うのだ。泊まるならM館の方へどうぞと云う、聞いてくれない、残念だが弁天島での宿はこれでさよなら仕様。新居、二川、豊橋を経て蒲郡に一泊それから岡崎へ。この岡崎では遊郭が昔のままを残して居た事と、八丁味噌の倉作り、歴史で有名な矢作橋等が印象の深いものだった。 | ||
| 名古屋本町筋旅館 銭屋 | ||
| 名古屋へ急ぐ。ここは母の生地であるので親類が多い。どうしても訪ねばらならぬ家があった。それでも一晩は自由に宿屋の客になりたかったので第一夜は市の中心本町筋の旅館で銭屋というのに泊まる事にした。銭屋と云う屋号は大いに気に入ったここも巡査が選んで呉れたんだから堅い店なのだろう。女中が早速宿帳をと来た。さてこっちは久し振りで大都会へついたのだし人恋しい気分も出て来たところなので当の女中さんに対しても、ご機嫌を取る位だったから女中君大いに喜んだらしい。貴方は本当に学生さんかと不審がられたのも故なきに非ずだ。勿論うそ偽りなしの学生さんで、画を勉強する学校の生徒さんなんだ。そして東海道を京都迄の画行脚途中の立ち寄りとまあこんな具合に喋っていると、これは驚いた、一人二人と集まった宿の女中さん、七、八人が私を取り巻いていったものだ。内心大喜びの顔にはその色も出さず東京だよりでごまかして得意になっていると、この間東京から来た修学旅行の学生が泊まった時の話を女中達が聞いてくれと云いだした。話というのは、その一団が到着すると引率の先生が女中一同に向かって曰く「この生徒は皆東京の上流階級の子弟ばかりだから用向以外の話をしてはいけない」という堅いお触れ。女中さん連中は東京の話でも、と期待して居たところだから大いにご機嫌を損じてしまった。その後釜へ私がお着きになったのだからこっちがもてるのももっともだ。三角帽の横っちょに赤い房を下げ桐の徴章のついた学校帽だったと云う。階級意識の強かったその頃のようすがよく解って面白い。私はここで東京の明け暮れやら東海道中の所感を熱弁でやったので大変な喜びようだ。ラジオもテレビもなかった時代の一例だと思うと微笑ましい。こうして名古屋の第一夜を過ごした。 | ||
| 名古屋の親戚 | ||
翌朝親戚を訪ねる。東京からの便りが沢山来ていたので一応これ等を整理する。さてこの主人は、待ってましたとばかりで今日の案内者となる。朝早くから出かけて先ず熱田さんから始めようと来た。熱田さんは説明する迄もないので、あの辺りに残されてあった古い港の様子を記してみる。昔桑名へ七里の渡し場であったこの地は岸壁に小柄な燈明台があった、それがちゃんとそのままの姿で残されてあった。そして近くには船着場特有の旅館が何軒かあったがその一軒は立派なもので御用宿の大看板とともに御定宿の木暖簾に諸大名の名が欄間にぎっしり懸けられていたし、その家の構造も宮造り風に出来ていたのが印象深い。だから夢を追うようにこれ等を眺めていると止めどがない。親戚の親父が次の見物先を、と急ぐ。一日名古屋の郊外迄も見歩いた揚句、大須近くの茶亭に夕方客となる。名古屋美人も現れる豪華さに学生のこっちは吃驚したが、これが何とおやじの馴染みだったので後味が悪く、帰り路で今夜のところは家へは内密でと来た。こんな味まで味あわされたのが積もったからでもあろう、胃を害ねてしまった。 |
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| 鈴鹿神社 | ||
| 翌日は名古屋城を見物する予定も取りやめて此所を出発、四日市、桑名を汽車にたより、亀山の宿に着いた。夜も翌朝も名古屋の毒気で食事が通らない、従って亀山での宿代は泊まり代のみの一金四十五銭と云う廉価で済んだ。亀山から坂ノ下、関、鈴鹿と、伊勢から近江路への旅を続けてゆく、関と云う町は鈴鹿峠手前の阪路に連なる細い町並みで、好い風景画になる。そしてこれから昇り路の鈴鹿峠迄数里は実に淋しく白い路筋の、行き交う人とて、たった一人の巡礼だけだった。そして左手に見ゆる伊勢特有の起伏の強い山の形が何か不思議な神経を揺り起こす。やがて有名な鈴鹿峠の直下についた。見上げれば古杉に囲まれた此処に鈴鹿神社がある。その暗い木陰の一番高いところに一塊の岩があって、その頂上に注連縄が飾られた鏡岩が木陰を通して空を映しているのがほんとに薄気味悪く、道はこれを巻く様に曲折して昇ってゆかなければならないのだ。さっき通った関の町が、もう少し近かったら戻ってしまいたいと思った。天狗が出てきそうな感じとはこの事だろう、鳥の羽音にも神経をたたかれる。 | ||
| 鈴鹿峠八丁二十七曲がり | ||
| 足元ばかり見つつ登れとばかりようやく二十七曲がりを頂上に出た。木の下闇の路から急に明るく拡げられた眼界のここが伊勢一帯を望める鈴鹿に頂きなのだ。遠く鳥羽あたりの海外線迄霞んで見えるここには一軒の茶店があった。それも掛茶屋程度ではなく、古びて豪荘なもので、その昔、伊勢詣りに江戸に、京都に、ここを通る旅人の全部がこの店に立ち寄っていったのだと、老婆が話してくれる。ゆであずきを啜りつつ腰掛けている縁の厚い角が丸く磨り減っているのを見ても如何に多くの人々が立ち寄って行ったがが解る。そして巾の広い欄間には煤けた板暖簾が一面に掛けてあって諸大名の名が読まれた。老婆は遠い昔を思い出す様にいろんな話を話して呉れた。前の道路をへだてた空地にはこいのぼりが六月の風に揺らいでいる。暫くするとさっきの老婆が孫らしい男の子を抱いて私がスケッチしている側に出て来た。そして取り残されたこの等も近く峠の下にトンネルが出来るからやがて廃道になるのだと云う。 | ||
| 乗合馬車 | ||
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| 次の駅である土山を出る乗合馬車は午後三時限りと聞かさ聞かされ急ぎ足で蟹坂部落を通過して、やっと土山の宿場に着く、すると盛んに豆腐屋の鳴らすラッパと同じ音色で吹いている。もしかすると乗合が出るのではないかと駆けつける。間に合ってほっとする。馬車はゆるりゆるりと土山を出発して次なる水口へと下ってゆく 坂は照る照る 鈴鹿は曇る あひの土山雨がある の馬子唄を思い出すが、この馬車てゆられてではピッタリ来ない。 この馭者と心安くなったので名所話や、世間話を聞かしてもらいながら夕方近く水口の町に着いた。 |
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| 水口の宿 | ||
| 彼から聞いた宿に真っ直ぐ行って客となる。ところが翌朝早く宿の番頭がオヅオヅとは入って来て、駐在所の巡査がお目に懸かりたいが此処に通しても好いからと云う。兎に角、諾を与える、四十位の小太りの巡査が入って来た。君は学生の様だか真実か?と来た。学校からの証明書を持っていたので簡単に話が解けた。夕べの残り餅菓子を出して話し合う。六月から夏休みになる学校はないと云う。後で宿の者がしきりに頭を下げて恐縮がる。夕べから何度も着たらしい、そして会わせろと言ってたのだそうで、人相が好くないばかりに、面倒を掛けたと笑った。 | ||
| 草津の小川 | ||
| ここを出て石部から草津へと出る。振り返ると昨日越えた鈴鹿の山々が朝日の影に遠く近江と伊勢の境として屏風のように連なって、空を区切っている。草津の小川でスケッチしていると第三の男が出て来た自分の家へ泊まれと云う、これは商売ではない、別荘を持っている京の人らしく画を愛する人だった。鮎のご馳走でもするからと云う。京までの旅も間近いから帰りに寄る約束で厚意を謝す。瀬田の唐橋、大津、三井寺等を見物して汽車で京へ着く。 | ||
| 鴨川 | ||
| 緑が濃くなった東山沿いの電車で一応三条通りへ降り立つ。落ち付いた京へ永い道中して来た気持ちは格別なものだ。三条大橋から見る比叡、愛宕の西山の、又は清く流れる鴨川を眺めているとは何とはなしに涙が湧いて来る。紅柄塗りの京の家々にしても、東京を出て二十日に近い旅路を過して来たのだから印象が強く、何もかも喜びだ。 | ||
| 偽学生 | ||
| 三条小橋を渡って少し歩いていると右側に一軒の理髪店があったがその真正面に掛けてあった大鏡に偶然私の姿が映った。店内が暗いからかえって明瞭に見えた。成程これでは偽学生にも見えたろう。髪は延びて学帽の外へぼやぼやと、中古の金ボタン服は肩のところが羊羹色のなりかけている。靴は踵の外側が磨り減っていっている。これではと我ながら感心してしまった。 | ||
| 帰京 | ||
| 東京を出発する時に友人から紹介による麩屋町通りにあった甲賀屋と云う旅館に落ち付いた。京訛りの甘いアクセントに心がやわらぐ、そして一週間で京で過ごして画帳を充たした。帰りの汽車は特に昼間を選んだ。往きに見た山を、河を、町を見直しつつ帰京した。 | ||
| 東禅寺 | ||
| さあこれから現場の仕事に取り掛かるのだ。何しろ二十何間もの横長い代物だから普通の家では仕事が出来ない。幸い家の寺である高輪の東禅寺へ頼み込んでその座敷を借りる事にした。時の住職が大変好い人なのと私のおやじと仲が好かったので都合よく話が進んだ。再び帝国ホテルの食堂へ行き、原寸を計り直し、横縦の寸法と同寸法の下絵の紙を作った。そして食堂の真正面中央に富士を配し度い考えから巻物にした下画紙にその場所の印を附してから、もう一つ別の小下画を作ったものを土台として富士を中心に右手に東京までの、左手に京都までのを書き分けていって段々と構図が出来ていったのだ。さて東禅寺での製作も約二ヶ月で終了、若い頃の事なので大いに意気を揚げたものだ。 | ||
| 壁画完成 | ||
| 経師屋の手に依って裏打ちをし、現場の壁にも同様下地を和紙で張り付ける等、準備も終わったのでいよいよ壁面の中央部に当たる富士山のところから右に左にと、はりだしてゆく、私は食堂の真ん中へ腰を下ろしてこの様子を見ていると何とも云えない亢奮が湧いてきて、側で同じく見ておられた林支配人と笑をかわしたものだ。東海道の行脚から始まったこの仕事もどうやら終わった。勿論所々に不満な点もあったが何とか纏め上げた事だけでもと、一人思ったものだ。 | ||
| 挿話 | ||
| ついでながらここで一つ二つにこれに連なる挿話を記したい。第一に氏名を隠された人から絵巻風に東海道を書いて欲しいと林さんを通じて、第二はこの食堂のキャプテン氏から二、三私に任せるからいいところを書いて欲しいと、第三は林支配人宅の子供部屋へ壁画を、それと駒沢ゴルフ場の全景図それに近く同ホテルで行われるある宴会場の入口を装飾して欲しいと、以上のような繁盛ぶりであった。 | ||
| 宴会場入口アーチ | ||
| 日限物の宴会の仕事を第一に取り掛かる。それは宴会場入口にエジプト風の画模様によるアーチを作る事だった。多分、これはゴルフの親睦会か優勝の記念式かである。ミイラ取りがミイラになったような話しから生まれた案で、宴会場のキャプテンだった仁羽さんもこのアーチをみて驚いたものだ。その上当日の式場へ引っ張り出された上に列席の面々の似顔絵迄も画かれさてしまった。その面々は時の有名人ばかりであって大した顔ぶれの集まりであった。 | ||
| 駒沢ゴルフ場 | ||
| 次に林さんから呼び出されて、お宅へ伺うと今日はゴルフ場を見せるから一緒にきなさいと云う、そして君一寸済まないがこれを担いでくれとゴルフバックを肩にした。そしてとうとうゴルフ場を一周の後これがゴルフ場のクラブハウスだと赤松林の向こうの建物を指される。何処からでもよろしいこのゴルフ場を画いてくれと云われるそれは承知したが考えてみると今日はいつの間にかすっかりキャディをやらされてしまったのでぼうっとしたことである | ||
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